人生感
価値観が時間軸を捉えた時、呼び名が人生感に変わる
小学生5年生辺りから、自己の価値観を形成しはじめ、個々の経験や感情の循環でセルフイメージが決定され、思考傾向や行動が習慣化され、結果に導かれていく。
いつしか、周囲との比較や常識に縛られて、行動選択の幅を失い、今目の前で起きている事が全てとなり、劣等感・皮肉・諦めなどのネガティブな思考で頭の中が満帆になると、行動・挑戦・努力をやめて、人の思考は停止し、未来が見えなくなり、そして動けなくなり、時には死を選択してしまうこともある。優しい人ほど。感性が豊かな人ほど。一生懸命な人ほど。
「言葉は人を生かしも殺しも活かしする」
なぜ私は教育事業を行うのか。
私がなぜ教育講演活動を行うのか。
私がなぜYoutuberになったのか。
私がなぜ歌手に挑戦するのか。
ただ自分がやりたいことに挑戦しているわけではない。
私は9歳から野球を始め、小学校・中学校・高校・大学と野球を続け、全てのチームで主将を務め、自分の行動と言葉でチームを引っ張ってきた。
こんな私でもついてきてくれるチームメイトや、時には厳しくも自分を認めてくださり信頼して下さる指導者の方々に恵まれ、何より自分のやりたいことをやりたいだけ伸び伸びとやらせてくれる家族に恵まれた。だからこそ、今まで生きてこれてのだと強く感じる。
智辯和歌山への恩返しも達成され、自身が30歳を過ぎ、年号も平成から令和へ変わった。
支えてくれる妻と、3歳の息子、1歳の娘にも恵まれた。
高校野球の指導者・学校の教師という時間は最高だった。しかも、自分を育ててくれた母校のために自分の力を発揮できるのだから、これほど素晴らしい環境はない。
母校に戻ったきっかけは、「自分を必要としてくれたから」「ただただ恩返ししたかったから」その2点だけであった。
高校野球の指導者になりたかったわけではなく、教師になりたかったわけでもない。
自分を育てて頂き、必要としてくれた母校に恩返しする手段として、高校野球の指導者と教師という手段を使った。
智辯和歌山野球部を、何もないところから全国屈指の強豪まで育て上げた日本一の監督である髙嶋仁監督から、智辯和歌山で主将として全国制覇も経験し、プロ野球界で15年間捕手として活躍してきた中谷監督への智辯和歌山最初の世代交代を、部長とうい立場で無事に完了させること。これが私の智辯和歌山での最大の使命であり、母校への恩返しでした。 〜つづく〜
数回にわけて、「なぜ私はが智辯和歌山を退職し現在地にいるのか」を投稿させて頂きますので、もし宜しければ御覧ください。