罪からの学び
自分の人生を変えるような失敗が誰にでもある。
しかし、その失敗の責任を背負えるかどうかで成長できるかが決まる。
言葉によって過ちを犯したことによって、自分の愚かさに気づくことが出来た。しかし、人間といういうのは設定が決まっており、どうやら私は自分にも他人にもすぐに厳しい言葉を選択するらしい。当初は相当意識しないと、すぐに元の自分に戻ってしまいそうな自分がいた。そのようなことを考えると、今まで強く出ていた言葉を発することができなくなっていた。
自分の長所は熱く真っ直ぐに物事に向き合い、素直な感性を使い本質を捉えるところだと自負している。しかし、時として、それが一方的な価値観の押し付けにつながり相手を締め付ける。
「言うは易し 伝えるは難し」
3年間、熱く真っ直ぐに厳しく伝えていた言葉が、全く伝わっていない事に気づいたのである。
自分の成功体験からくる価値観を一度壊し、何にも無しから改めて指導、ひいては言葉の学びが始まった。
今の私がいるのは、この時期にした2つの経験のお陰である。
1つ目の経験は、智辯和歌山小学校での1・2年生の授業を担当させて頂いたことである。そもそも言葉が伝わりにくく、集中力の持続時間が短い児童に対して、普通に言葉を発するだけでは伝わらない環境下で、いかにして興味を引きつけ、五感を刺激しながら必要な言葉を相手に伝えられるかの工夫を重ねた。それが野球部の指導にも直接的にいかされていった。
2つ目の経験は、特別支援学校での体験実習である。特別に支援を要する児童生徒に対して、個々にカリキュラムを作成し支援していく教育の在り方に教育の根本を改めて感じた。完璧な人間などこの世に存在せず、得手不得手あり躓くポイントも人それぞれである。個性や躓きポイント、そしてタイミングを大事にして言葉を発することによって、その言葉は意味のある言葉となることを学んだ。
年齢を重ねてくると、当たり前の基準が高くなり、出来て当たり前のような錯覚に陥る。
「これぐらいはできて当たり前という偏見」「できない人への苛立ち」「多数派、あるいは自分とは違う感性を持つ人の否定」
これらによって、様々な問題をひきおこし、子供たちにも大きく影響していることまで見えてきた。
少しずつ選手と指導者としての信頼関係が生まれ、少ない権限範囲ではあったが自主練習やトレーニング等で選手と共に汗を流しながら、選手の潜在能力を引き出せるようになっていったのである。 〜つづく〜